・日 時 : 12月15日(木)午後
・見 学 : 14:00~15:45 休憩 15分間
・講 演 : 16:00~17:00
はじめに
今年は、先進企業現地見学会を4月に実施ました。
そこで12月研究会を近場ですが、再度現地研究会として計画を立てさせていただきました。
『研究と想像の精神、モノづくりの大切さを次世代へ』トヨタ産業技術記念館は、建物自体も貴重な近代化産業遺産に認定されております。
代表的な赤れんがの壁は、大正~昭和初期に作られたものもあります。
繊維機械館があり「糸を紡ぐ、布を織る技術」の移り変わりを、自動車館では「自動車のしくみと、開発・生産技術」の移り変わりを紹介しています。また同時に阪本 敦様 トヨタ産業技術記念館 広報グループ 担当マネージャーから上海での豊田紡織廠(しょう)のあらましなどを詳しくお話いただきます。
また同時に阪本 敦様 トヨタ産業技術記念館 広報グループ 担当マネージャーから上海での豊田紡織廠(しょう)のあらましなどを詳しくお話いただきました。
展示は大きく繊維機械に関するものと自動車に関するものの2種類であり、それぞれが「繊維機械館」「自動車館」に納められていました。
私は、早めに来て見学しましたが、かつての豊田紡織本社事務所(写真)も敷地内で修復され、「トヨタグループ館」として佐吉による設計図や取得した特許証などのゆかりの品が展示されています。
主な見学ルート
エントランスロビー ⇒ 繊維機械館 ⇒ 全自動紡績システム ⇒ 自動車館 ⇒ トヨダAA型乗用車
エントランスロビー
ロビーには、基本理念のシンボルとして環状織機が動態展示してありました。
環状織機の前で記念撮影
繊維機械館
昔は、こうやって糸を
つくっていました・・・・
糸も機械化されるようになり
改良を重ねて
多くの形式の織機が展示されていました。
小学生から大人まで学習ができますね。
機械の複雑な構造も
電気制御でなくて機械的な構造となっていました。
決して技術が遅れているのではなく
むしろ誤動作の無いすぐれていると感じました。
江戸時代の末期までは、人の力で道具を動かしていました。それが西洋技術の導入によって、道具から機械の時代へと発展。
水力から蒸気、そして電気へと移り変わる動力の変遷を、「動力ガラ紡機」「横軸露出型水車タービン」「原動力駆動モータ」などの模型や実物を使って紹介していました。
新しい技術をとりいれた機械ですね。
自動車館
トヨタの自動車づくりをさまざまな角度から紹介しているのが、この自動車館。延べ7,900平方メートル。大きな体育館に、自動車工場がまるごと入った感じ。「自動車事業創業期」「自動車のしくみと構成部品」「開発技術」「生産技術」、4つのゾーンから構成しています。
講 演 : 16:00~17:00
広報グループ 担当マネージャー 阪本 敦 様
トヨタのルーツ 「上海豊田紡織廟の西川 秋次翁」 について
1.豊田佐吉と上海紡織記念館についてについて (ビデオ上映)
トヨタ自動車75年史より
第1次世界大戦の勃発により、中国市場では英国綿製品の輸入がストップしたため、日本の紡織会社の中国進出が活発化した。1919(大正8)年8月1日には中国の輸入関税率が綿糸布価額の3.5%程度から5%へと引き上げられ、これをきっかけに、中国での現地生産に拍車がかかった。すなわち、1914~1925年に中国では87の紡織工場が設置されたが、そのうち日本系は17社33工場にのぼったのである。
このような状況のなかで、豊田佐吉は、1920年に中国の上海で紡織工場の建設に着手した。この工場は1921年5月に完成し、同年11月には豊田紡織廠(中国名、豊田紗廠)が設立された。
講演の要旨
豊田佐吉は慶応3年(1867年)に遠江国、浜名湖の西にある敷知郡山口村(現在の静岡県湖西市)で、父・伊吉、母・ゑいの長男として生まれた。豊田家は伊吉が百姓のかたわら大工で生計を立てていた。佐吉を頭に3男1女の子供と両親の6人が豊田家の家族であった。
西川秋次について
トヨタ(豊田)は大番頭というべき優秀な人物を多く輩出した。岡本藤次郎、石田退三、神谷正太郎そして奥田碩らである。だが、彼らより以前に佐吉を支え、佐吉の夢の実現に努力した大番頭と呼ぶにふさわしい人物がいた。それが西川秋次である。西川は1881年(明治14年)12月2日、愛知県渥美郡二川町三ツ家で西川重吉の二男として生まれた。浅子とは縁戚であった。
佐吉と上海について
1918年(大正7年)に佐吉は上海へ渡った。海外への進出は彼の長年の夢であった。すでに上海紡績、内外綿という大手の会社は上海で工場を操業させていた。しかし、社内からは強い反対があった。この年の1月に豊田紡織を株式会社に改組したばかりで、海外へ力を注ぐことを心配したのである。だが、佐吉は三井物産の支援もあり、進出を決断した。この時進出を渋る親族を説得する際に語った「障子を開けてみよ、外は広いぞ」の格言は有名である。
「豊田綱領」とは、豊田佐吉の考え方を、豊田利三郎、豊田喜一郎が中心となって整理し、成文化したもの。
佐吉の5回目の命日にあたる1935年(昭和10年)10月30日に発表された。
トヨタグループ各社に受け継がれ、全従業員の行動指針としての役割を果たしている。
一、上下一致、至誠業務に服し、産業報国の実を拳ぐべし
一、研究と創造に心を致し、常に時流に先んずべし
一、華美を戒め、質実剛健たるべし
一、温情友愛の精神を発揮し、家庭的美風を作興すべし
一、神仏を尊崇し、報恩感謝の生活を為すべし
<エピローグ>
岡崎 嘉平太(おかざき かへいた、1897年(明治30年)4月16日 - 1989年(平成元年)9月22日)は、日本の実業家。
日中国交正常化の際には、田中角栄総理が中国を訪問する2日前、周恩来は岡崎をもてなすために、食事会を開いた。
3つの世界一に続く、次なる世界一を「世のため、人のために」。 トヨタグループの源流企業である
トヨタ自動織機時代からの歴史、そして大掛かりな展示物は動態保存されているものが多く、技術の進歩を実演で感じることができました。
阪本 敦 様が上海駐在を体験した、想いのこもったご講演をいただきました。
今年最後の催しにふさわしい思い出のある見学会でした。
それでは年内あと少しですが
どうぞ良いお年をお迎えください。
事務局(川﨑 修)